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ポーランド・シベリア孤児記念小学校 概要

 シベリア孤児記念小学校はポーランドの首都ワルシャワから約30キロ離れたツェレスティヌフ郡、スタラ・ヴェシにある公立学校です。現在の学校がポーランド・シベリア孤児の名前を冠する2018年11月20日以前にもこの場所には学校がありました。学校が設立・開校したのは1965年2月のことです。開校後53年間で2000人を超える卒業生を輩出し、中には法律家や学者、建築家、技師、医者、聖職者、音楽家、軍人、警察、民主活動家、地方自治体の職員、教師、起業家など様々な分野で活躍している卒業生たちがいます。2017年には保育園が傘下に入りました。現在、幼稚園と小学校を合わせて400人を超える子どもたちが学んでいます。

シベリア孤児小学校訪問希望の方へ

学校は一般的な公立校です。そのため通常授業が行われており、予約なしの訪問はできません。訪問希望には事前の予約をしてください。以下のメールにて訪問希望日時、人数、目的を記載の上申し込みを行ってください(日本語対応可)。

シベリア孤児小学校 対外窓口 坂本龍太朗

japonia.polska@gmail.com

電話:+48 792 598 455

小学校を支えたいと考えている方へ

物的支援

シベリア孤児記念小学校では子供達が日本語や日本文化を学んでおり、今まで授業で使うノートや鉛筆、文化の授業で使える和菓子や法被、扇子などの寄贈をいただいております。その他にも日本的な物であれば子供達は大変喜びますので、是非ご相談ください。

金銭的支援

現在、300名以上が通っている校舎はすでに小さく、今後2~3年以内に学校の拡張工事が行われます。それに伴い、学内に日本の部屋や映像を使った日本・ポーランド関係の博物館を作り、一般に公開する予定です。博物館を作り、両国の関係を知るためのポーランドの拠点としての機能を果たしていこうと考えている次第です。博物館開設にあたり、金銭的支援を受け付けております。

ポーランドでの日本語教育の現状は?

現在、ポーランドの小学校で日本語教育が行われているのはシベリア孤児記念小学校のみです。しかし他の小学校でも日本語教育を始めたいと検討しているところもあります。その他、簡潔にポーランドにおける日本語教育についてまとめると以下の通りです。

学習者数は3000人を超えており、その数は増加傾向にあり、また若年化している。

・欧州では珍しく、1カ国で4つの国立大学に日本学科がある。

・日本語学科ではなく日本学科として言葉と文化を学ぶ学生がほとんどである。

・日本学科は長らくポーランドにある専攻の中でトップの人気を誇る。例えばワルシャワ大学日本学科は2004年に倍率34倍、現在でも30倍前後で推移している。

・ポーランド人は欧州の他国にも多く滞在している。欧州の大学で日本語を学んでいる学生の4人に1人はポーランド人だと言われている。

文部科学省奨学生数は非漢字圏世界1位、2014年には中国と並んで同一世界一位となった。ポーランドは日本語レベルが高いため他国で受ければ十分受かるレベルの学生達が受からないという状況が続いている(他国と派遣割合が考慮されているため)。

・現在、毎年約1000人が日本語能力試験を受験している。年2回試験が行われる国は欧州でも珍しい。

日本のメディアで取り上げられる小学校

2019年5月 NHK 皇后四代~思いは時を超えて – NHKドキュメンタリー

2019年7月 FBC 福井放送

2019年7月 親日を巡る旅: 世界で見つけた「日本よ、ありがとう」(井上 和彦著)

2019年8月 日本を出て日本を知る(坂本 龍太朗著)

2019年11月 月刊正論11月号

 

 

 

ワルシャワ日本語学校出版の100周年記念誌

ポーランド語と日本語、両か国語で出版された100周年記念誌です。シベリア孤児小学校を含め、ポーランド、日本の絆について盛りだくさん!

シベリア孤児の歴史

 1919年から23年にかけ、882人のポーランドの子どもたちがシベリアから救い出されました。その中には日本によって救助された765名の子どもたちが含まれています。なぜシベリアにポーランド人がいたのでしょうか。彼らは主に19世紀に流刑となっていた政治犯、戦争難民、シベリア鉄道建設などでシベリア送りになっていた人たちです。20世紀の初めにはシベリアに15万から20万人ものポーランド人がいたと推計されており、子どもたちの生活環境は劣悪でした。食べる物も住む場所もないような孤児達の命は常に危険にさらされていました。1919年、ウラジオストクにいたポーランド人たちはせめて子供たちだけでも救いたいとポーランド救済委員会を設立しました。会長にはアンナ・ビェルキェヴィチ(1877-1936)が、副会長には医師であったユゼフ・ヤクブキェヴィチ(1892-1953)が就任。シベリアにいるポーランドの子供たちを帰国させるための資金集めに翻弄しました。しかしインフレにより集めた資金は紙くず同然となり、支援を期待していたシベリア出兵中の米、英、仏も撤兵してしまいます。1918年に独立したばかりの小国ポーランドをまともに扱ってくれる国は少なかったのです。救済委員会は各国から支援を断られる中、最後の頼りとして日本国外務省を訪れました。第一次世界大戦後、日本も困窮していたにも関わらず、なんと日本政府は要請から17日後に支援の決定を下したのです。その決定はすぐにシベリアに派遣されていた日本陸軍に伝えられ、各地で革命軍との戦闘で犠牲を出しながら、日本軍はシベリアの奥地まで行ってポーランド孤児たちを救い出したのです。その結果、1920年7月に第一次救済として375名の子供たちがウラジオストクから敦賀に入港、子供たちはその後東京の福田会に滞在し、手厚いもてなしを受けることになります。1921年4月6日には貞明皇后陛下が施設をご訪問。慣例を破って子どもたちを自分の近くまで招きよせると声をかけ励ましになりました。そのニュースが日本中を駆け巡ると、日本中から寄付や援助が寄せられました。  

 日本の支援はここで終わりません。1922年7月、日本は第二次救済事業を実施し、390名の子供たちを救い出ししたのです。敦賀に入港した子供たちはその後大阪に滞在し、手厚い医療支援を受け、服や靴などの支物物資も全国から届けられました。子供たちは1922年7月、神戸港を出航。上海、香港、シンガポール、コロンボ、スエズ運河の北端ポートサイド(エジプト)、チュニス(チュニジア)、マルセイユ(フランス)、リスボン(ポルトガル)、ロンドンを経由し1922年11月にポーランドのグダンスクに入港しました。

 帰国したものの、独立直後からの混乱で、祖国ポーランドは孤児たちを受け入れる余裕を持ち合わせていませんでした。そのため多くの子供たちはポーランド北部にあるヴェイヘローヴォの施設に集められで教育を受けます。教育に当たったのは救済委員会副会長のヤクブキェヴィチでした。日本に関する教育やイベントも多く行われました。ヤクブキェヴィチは日本への恩を忘れず、子どもたちに、そしてポーランドに日本を伝えることで少しでも日本への感謝を示そうとしたのです。こうして子供たちは日本を精神的な支柱とし、社会復帰を果たしていきます。その後、第1次救済で救われたイェジ・ストゥシャウコフスキ(当時17歳)を会長として孤児たちを中心とした極東青年会が設立されました。青年会はポーランドで「極東のエコー」を出版したり、「日本の夕べ」というイベントの開催、日本の映画上映会などを通して日本をポーランド国内で伝える活動に奔走しました。1938年には434人もの会員を抱えるまでに成長しました。青年会の活動によってポーランドの親日度は大きく高まっていくことになります。

 1939年9月、ナチスのポーランド侵攻によって第二次世界大戦の火蓋が切られるとイェジ・ストゥシャウコフスキは首都防衛戦に参加。その後、ポーランド国軍の傘下として特別蜂起部隊「イェジキ」が誕生。多くの日本に救われた孤児たちがイェジと共に戦闘に参加しました。カンピノスの森の戦いは特に有名で、イェジキ部隊は660名もの犠牲を出しました。そこまでして祖国防衛にあたった背景には、祖国を失えばまた自分たちのような孤児があふれる。それだけは絶対にさせないという想いがあったのです。イェジキ部隊の軍旗は旭日旗をモデルにしています。ここでも日本を支えに彼らが戦っていたことが分かります。イェジは同時にワルシャワで戦争孤児となったりと浮浪していた子供たちを集めた孤児院を運営していました。孤児院には何度かドイツ軍民兵が押し入りましたが、そのたびに在ポーランド日本国大使館員が駆けつけ、孤児院は日本政府の保護下にあるとして撤収させています。戦時中、日本に救われた孤児の1人であったアントニナ・リロ女史はユダヤ人を自宅にかくまい命を救い、戦後イスラエルから称号を授与されたことも付け加えておかなければいけません。

ポーランド・シベリア孤児記念小学校の誕生

 1995年、阪神淡路大震災発生。当時、在京ポーランド共和国大使館には商務参事官としてスタニスワフ・フィリペック氏がいました。震災の惨状を見て、今こそシベリア孤児を日本が救ってくれたことを思い出し、お返しに被災児童をポーランドに招こう動き始めます。ポーランドの町や京都ロータリークラブなどの支援を取り付けるとポーランド出身のピアニストらが慈善コンサートなどを行い資金集めに協力。こうして同年と翌年の夏休みに「森と湖の国ポーランド3週間の旅」が実現したのです。小学校4年生から中学校3年生までの被災児童計60人がポーランドを訪問しました。その際、神戸の子どもたちはポーランド科学アカデミー所属ツェレスティヌフ高圧物理学研究所の中庭で開かれたお別れパーティーで4人の元ポーランド孤児たちと対面しました。75年前、日本に助けられた孤児たちとの出会いは神戸の児童達にとって大変大きな励みとなりました。現在のシベリア孤児記念小学校はその際に受け入れ施設として、子どもたちが数日間寝泊まりした学校です。

 そんな歴史の上に学校に「ポーランド・シベリア孤児」という校名をつけるのはどうかという話が持ち上がります。シベリアという悪いイメージのある言葉を校名に入れることは保護者らから大きな反対もありました。しかしオスフ校長の「歴史は忘れてはいけない。この学校を日本とポーランドの絆の拠点にする」という強い意志は変わりませんでした。校長のリーダーシップと度重なる関係者への説得でついに構想が実現したのです。この学校の校章には何と桜や日本国旗が。そこにも日本との強い絆が見て取れます。図書館ではシベリア孤児の歴史についての読み聞かせが行われ、折り紙や空手、日本語の授業などに加え、音楽の授業では「君が代」が歌われます。これがポーランドの公立の小学校で起きている実際の話なのです。以前「シベリア」という言葉を校名に入れることに反対していた親御さんたちも、現在では日本との関わりがある学校で子どもたちが学んでいることを誇りに思うようになり、近隣の街からの入学してくる子供もいるほどです。この学校がある限り、シベリア孤児の歴史は決して忘れ去られることはなく、私たちはその歴史を学び、伝え、生かしていくことができるのです。